幸福の相(すがた)

-主人公は誰か-

はじめに

「人生の目的、生きる目的は何か」と問われると、どうしても堅苦しく感じます。そこで「幸せとは何か」ということについて考えてみたいと思います。 仕事柄、事業経営者の方々に「あなたは、なぜ、事業を行っているのですか」という質問をかける機会があります。「あなたの事業の経営理念をお聞かせ下さい」とたずねると、「突然いわれても…まあ、かっこよく言えば社会に貢献することだとかいろいろあるだろう。でも、事業をしてる以上、まずは金を儲けていい生活をしたいというのが本音かな」という回答が戻ってくることが多いようです。「それでは、経営理念を文章にしましょう。いまおっしゃったことをこの用紙にご記入下さい」と申し上げて実際に書いていただくのです。 確かに創業の時期は、事業を軌道に乗せ、何とか食えるようにするのが、何よりも重要な課題になるのは当然のことです。人間食っていくことができなければ話にならないからです。したがって創業当初の経営者の方々の中には、経営理念が、「金を儲けてよい生活をする」と文章にしても疑問を感じない方もいらっしゃいます。ところが、多くの方は、自分の事業の経営理念は金を儲けることであると文章にしたとき、言葉で自分が話していたときとは違う感覚を持たれるようです。金さえあれば幸せだと心底感じている人は実は非常に少ないのではないかと思います。ただ、「では自分の経営理念が何か」と考えたとき、それを的確に表現する言葉が見当たらないのです。

「金」さえあれば幸福か

「金」さえあれば私たちは幸せになれるのでしょうか。たとえば、ある人が、1、000万円欲しいと考えたとしましょう。必死になって働き1、000万円の金を得ました。その時彼はどう思うでしょう。金さえあれば幸せだと考えるのであれば「次は1億円」と思うはずです。やはり必死に働いて1億円を手にしました。次は10億円そしてその次は100億円。本当に彼はこれでよいのでしょうか。たとえ、それらが実現したとして、その代償として彼は何かを失ったのではないでしょうか。「金」は不満を減らしてくれるかもしれませんが満足を増やしてはくれないのです。

99頭の牛

インドの昔話に「99頭の牛をもつ男と1頭しかもたない男」というのがあります。ある貧しい村に2人の男が住んでいました。二人は共に幼いときから身寄りがなく、力を合わせて生きてきました。ある時、1人は「こんな貧しい村にいつまでいてもだめだ。自分は町に出て大金持になる。いっしょに町に出よう」もう一人は答えました。「僕はこの村が大好きだからここで頑張ってみるよ。君が町へ出て成功することを僕は心から祈っているよ」こうして2人は、それぞれの人生を歩み始めました。町へ出た男は、100頭の牛を得るという目標を立て必死で頑張りました。しかし、100頭の牛を得るのはなかなか大変なことでした。思うようにならないことばかりです。それでも彼は歯を食いしばって頑張り、やっと99頭の牛を持つ身分になりました。ただどうしても最後の1頭を増やすことができませんでした。牛を得るためにあくどいこともし尽くしましたから、もう彼に騙される人もいなくなってしまったのです。そんな時、彼はふと同郷の友人を思いだしました。「そういえばヤツは、やせこけてはいるが牛を1頭持っていたはずだ」と。彼は何とかして友人から、最後の1頭を騙し取ろうと考えました。そこでいろいろ策を巡らした挙げ句、事業に失敗したように芝居をしようと考えました。彼は町へ出てから初めて自分の生まれ故郷に戻りました。ボロボロの身なりになって親友を訪ねたのです。村の男はびっくりして彼を迎えました。「町で頑張っているといううわさを聞いて僕は君のことを誇りに思っていたのに、どうしたんだい」「確かにいいときもあったんだ。でも、悪いやつに騙されて、とうとうこんな格好になってしまった。そしたら急に村が、そして君のことが恋しくなって、いてもたてもおられず君に会いに来たんだよ」村の男は、彼を迎え入れ二人はつもる話を夜更けまでしました。次の朝、村の男は尋ねました。「君、これからどうするんだい」町の男は答えました。「いまはなにも考えられないんだ」村の男はさらに尋ねました。「見ての通り僕は妻子もいて昔と変わらず貧乏だけれど、君のために何かしてあげたいんだ。何か僕にしてあげられることはないかい」「滅相もない。僕は君に頼ろうと思って戻ってきたのではないんだ。ただ君に会いたくて・・・ただ・・・今牛が1頭あればなんとか急場を凌げるのだけど・・」村の男は困りました。ただ1頭のやせこけた牛は、自分の妻とたくさんの子供たちを養うために欠かせないものだったからです。この会話を耳にしていた、村の男の奥さんが自分の夫を呼びました。「あなた、何を迷っているのですか。あなたの大切なお友達が困っておられるのですよ。牛なんかいなくたって、私たちみんなで牛の分まで働けば何とかなりますよ。あなたのお友達はすべてを失ってしまわれたのですよ。私たちには牛がいなくても、広くはないけれど耕す土地もあるし、そして何よりかわいい子供たちがいるではないですか」と。村の男は、奥さんの言葉を聞いて自分のことしか考えていなかったことを恥ずかしく思いました。そして村の男は町の男のもとに戻り「是非この牛を役に立てて欲しい」といいました。町の男は、村の男の足元にひざまずき「ありがとう。ありがとう。これで何とかなるよ」と礼を言って、牛を引いて帰っていきました。 この先どうなるのか、このお話はここで終わるのだそうです。そして話し手は、聞き手に対して問うのだそうです。「どっちが幸せだと思う」、と。 織田信長の言葉と伝えられているものに、「起きて半畳寝て一畳天下取っても二合半」というのがあるのはご存知の通りです。これも幸せとは何かを提起してくれる言葉です。 また、・戸時代の狂歌(狂歌とは世を風刺して作られるもの)に次のようなものがあります。 「幸福は背中に柱前に酒左右に女懐に金」非常にわかりやすい狂歌ですが一つだけ解説をしますと、「柱」というのは床柱を意味し、いわゆる地位・名誉をあらわしています。・戸時代の庶民は、幸せの根本が、地位にも名誉にも酒にも女にも金にもないのだということを知っていたのです。

幸福の相

さて、幸せとは、金でも名誉でもないということがうっすらと解ってきました。でもいったい幸せとは何なのでしょう。また、私達は、金や名誉で幸せを得ることはできないと薄々感じながら、なぜ、金や名誉に固執してしまうのでしょうか。 この点について、私が尊敬する高橋宗寛和尚(臨済宗妙心寺派妙性寺(千葉県佐原市)住職)は、次のように教えて下さいます。 『寂かに心を落ち着けて自分の生き方を考える時、私達は「よい生き方をしたい」という願いが湧いて来ることを感じます。しかし、現実の忙しさ、様々なしがらみ等によって、なかなかそのようには生きてゆかれません。人間は、本来自由な存在のはずです。けれども日常生活の中で、しばしば他人の思惑や自分の固定観念に縛られて、不自由を味わっています。それでは、何故「よく生きたい」と願いながら心ならずも別な暮らし方を選んでしまうのでしょうか。それは、人間の心の底に潜むもう一つの念“エゴの意識”の故であると、釈迦は説きます。エゴ意識から、種々の恐怖心や自我愛が生まれ、それらが不自由を現出するのだ、と。しかし…、人生は一回しかないのです。そのたった一度きりの人生を、エゴ意識や恐怖心・自我愛の下僕となって暮らすことにあなたは何の後悔もしないのでしょうか。 山本有三は“路傍の石”の中でこう述べています。

たったひとりしかない自分を たった一度しかない一生を ほんとうに生かさなかったら 人間生まれてきたかいがないじゃないか

一回しかない人生だからこそ充実したものにしたいと私達は考えています。上っ面の繁栄ではなく、中味の充実を計りたいのです。生き甲斐のある人生を送りたいのです。』 そうです。人生は一回しかないのです。この事をほんとうに自分のこととして感じることができた時、私達は、金や名誉に囚われて生きることが、何ともったいないことなのかということに気づくことができるのではないでしょうか。

自律と他律

自分自身の一心の叫び、そこに耳を傾け、自律した人生を送ることが、幸せの第一歩ではないでしょうか。そこで次は、自律と他律ということについて少し考えてみたいと思います。

先日、私は家族を連れて、皆さんもよくご存じの「大文字山」に登ってきました。私の家族は、家内と5才の娘そしてまだ2才の息子の4人です。銀閣寺から片道約2kmの山道を登ればそこからは京都市が一・できるのです。私も家内も、子供たち、特に2才の息子が、最初から最後まで一人で登り下山できることなど期待もしていませんでした。当然途中でおんぶをしたり抱っこをしたりしてやらねばならないことを覚悟していました。ところが、子供たちは2人とも全行程を自分の足で歩ききってしまったのです。親としてはびっくりしたのですが、よく考えてみると、当然だったのかもしれません。子供たちは、一歩一歩楽しんでいました。「させられている」という受動的にではなく、「したい」という能動的な気持ちで歩を進めていたのです。人間、他から押し付けられて受け身でいると、辛いとか、苦しいということばかり感じます。ところが、同じ事でも、自分にとって「したい」ことには辛さや苦しさをあまり感じません。歩くことを楽しく能動的に「したい」と感じた子供たちは、疲れを知らずに山に登りそして下山したのです。「受動」と「能動」の違いは割とわかりやすいと思われます。ただ「自律」というのは、なかなか難しいのです。「やらされる」という「受動」も「したい」という「能動」も、実は「他律」の域を出てはいないのです。「他律」は、そのすべてが、あくまでも自分の「我欲」から発生しているものだからです。ところが、「自律」というのは、「我欲」を超えた一心の叫びなのです。「せずにはおれぬ」という気持ちなのです。「やらされる」と「したい」そして「せずにはおれぬ」。他人の言動や、自分の我欲に囚われることなく、一心にしたがって生きる。もしこの事が実現できるのなら、こんなに素晴らしいことはない。そう思われませんか。 レーニンは、「働かざる者食うべからず」といいました。「おまえは働いていない。だから、食べてはいけない」というのは、他者からの制約であり、明らかに他律的な考え方です。労働を原罪、つまり罰として捉えた西洋的な考え方です。この事は、東洋において労働が、神聖な行為、生き甲斐とされてきたのと大きく異なります。百丈懐海(ひゃくじょうえかい)という高僧は「一日なさざれば、一日食らわず」とおっしゃいました。これは、「自分は今日一日働いていない。とても食事はいただけない」と一心から出た言葉なのです。レーニンの言葉とは比べようもないことは明らかです。これを「自律」というのです。

むすび

私達は、父親と母親があってこの世に生を受けました。私達の父親と母親もそれぞれその両親があってこの世に生を受けたのです。つまり私達は、4人の祖父母があったからこそこの世に存在しているのです。祖父母にもまたそれぞれ両親がおり、三代さかのぼると8人になります。実は、20代さかのぼるとその数は、なんと1、048、576人になるのです。20代前の100万人を超える祖先の誰一人が欠けていたとしても、いまの私達はこの世に存在していないことになります。同じような事は、私達の子孫にもいえるのです。子々孫々のためにも、一回かぎりの人生を、一心にしたがって自律して生きる。なんと素晴らしいことでしょう。そして、それを実現することができるのは、この世に一人しかいません。

そうです、主人公は自分自身なのです。


[盛和塾]28号

この原稿は盛和塾の機関誌 [盛和塾]28号(平成11年1月号)に掲載されたものです。

reports/report5.txt · 最終更新: 2009/05/31 10:27 by 寺本和生
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