創業・・・それは素晴らしい修行

税理士を目指すまで

学生時代、私は経済学部に席を置いていました。 ただ、私にとって大学は、勉学をするための場所ではありませんでした。 大学時代は、私にとって、これからの長い人生を如何に生きてゆくかを考える期間でした。 ほとんど授業には出ず、人生の先輩である社会人の方々と多くの時間を過ごしました。

ちょうど、私が入学した時に開業した一件のJAZZ喫茶が、私の定位置でした。 私は、JAZZ喫茶のカウンターに座り、またある時は、カウンターの中に入って、 常連のお客さん、一元のお客さん、様々な人達の人間模様を観察し、 共に議論し自分の生き方を模索しました。

この時期、私に最も大きな影響を与えてくれたのは、そのJAZZ喫茶のマスターでした。 自分の人生観をしっかりと確立することが、どんなに重要なことなのかを教わったと感じます。 既成概念に、ただただ流されることなく、自らの主体性をしっかりと持つことの素晴らしさを学びました。 と同時に、そこには言い訳の許されない責任があることを学びました。

大学入学当時、私は、ただ漠然とサラリーマンにはなりたくないと感じていました。 人生の半分を、人に使われる立場で生きることは、どうしても納得できませんでした。 しかし、当時の私は、確固とした人生観も、言い訳を許さない主体性も全く持ち合わせていませんでした。 ほんとうに半人前のあまちゃんでした。

私が抱いていた無限大の自由は、限りなく無に近い自己責任と同居していました。 マスターは、無限大の自由をいつまでも失わないことの素晴らしさと、 そこには言い訳の許されない無限大の自己責任の存在があることを教えてくれたのだと感じます。

学生時代に、インドとネパールへ2ヶ月間の旅をしたことも大きな収穫でした。 人間の視点が、住んでいるところの環境によって全く違うこと、 自分のものさしが、あまりにも一面的で、固定観念にとらわれているのだと言うことを思い知らされました。

人生を如何にいきるのか。大学卒業の間近になって私が出した結論は、 「人の役に立つこと」 「自分は、トップになるのではなくではなく、No.2の立場でトップを支えること」 の2点でした。

そして選択した最も適切だと感じた仕事が「税理士」だったのです。

資格を取るまで

就職と退職

私のシナリオでは、税理士になるための試験期間、つまり言いかえると、 社会人としての真の出発点である「税理士」になるまでの期間は3年でした。 ところが私は、その出発点に立つまでに、10年の時間を費やしてしまいました。 スタートに立つ前に、無限大の自己責任をたっぷりと味わうこととなりました。

昭和57年に大学を卒業した私は、 京都の会計事務所に勤務しながら、毎日大阪の専門学校へ通いました。 当時の税理士業界では、学校へ通わせていただく代わりに給与は少なめという、 「丁稚奉公」的な考え方がまだ残っていました。 雇用者にも被雇用者にも、この業界に資格を取ることを目的として勤務しているものは、 半人前であるとの感覚がありました。 何もかもが半人前でした。 ある意味では、大切な修行の期間だったのだと感じます。

大学を卒業して4年半経った昭和61年10月。 私は、突然立てなくなりました。 脊髄の病気でした。 髄液の中に、100個近い不純細胞が混入していました。 様々な検査をしましたが、原因は全く分かりませんでした。 当初Drは、脊髄に腫瘍があるとの予測を立てていましたが、その腫瘍が見つかりませんでした。 しかし、手足はしびれ、特に足は、なんとか立って歩くのがやっとでした。 白血球にも異常が認められました。

昭和62年の2月。 最も会計事務所が忙しい時期に職場に戻ることのできなかった私は、会計事務所を退職しました。

闘病時代

父が見舞いに

ある時私は、全身に赤い発・が出て、39度以上の高熱が1週間以上続きました。 髄液中の不純細胞と白血球の異常と発・と発熱。 この症状は、白血病の症状でした。 この時点でDrは、原因不明の症状は、白血病である可能性が高いとの診断を下しました。

私の父が病院に見舞いに来ました。 2年近い闘病生活の間、父が私の病室を訪れたのは、この時一回だけでした。 父はいいました。 「白血病の可能性が高いらしい。覚悟だけはしておきなさい。」 父は、この事だけを私に伝えるために病室を訪れたのでした。 自分の息子に、このようなことを告げなければならなかった父の気持ちが、痛いほど感じられました。

仲間の死

ただ私の闘病生活は決して暗いものではありませんでした。 共に闘っている仲間が大勢いたからです。 その一人、彼は高校生で中距離の陸上選手でした。 彼は骨肉種の疑いでした。 明るく前向きで病室にいつもさわやかさな風を運んでくれました。 彼のおかげで、私がどんなに救われたかは語り尽くすことができません。 医者は、彼に、早い時期に足の切断をすることをすすめていました。 もう一度トラックを疾走することを夢見ていた彼はそれを拒みつづけました。 とうとう彼は再び走ることをあきらめました。 でも手遅れでした。 既に肺にも・移していたのです。

彼の葬儀に、入院中の私は長文の弔電を送りました。 彼に救われたこと、彼の分も生き抜いてゆくことを伝えずにはおれませんでした。

高校時代の友人

また、ちょうど白血病の宣告を受けた頃、 高校時代の友人が2人、見舞いにきてくれました。 一人は高校時代に打ち込んだ演劇に対する情熱を今も持ちつづけています。 高校の教師をし、演劇部の指導をし、その卒業生を中心に劇団を結成して、 自らの脚本で毎年公演を行なっています。 もう一人は、神戸市役所に勤務し、あの阪神大震災の時、自らも大きな被害にあったにもかかわらず、 対応の窓口の第一線に立ってほとんど寝食をとらず、被災者のかたがたのために活躍しました。 5年ほど前の年末に、彼らに合った時、 彼らは、見舞いに来てくれた時のことを次のように語ってくれました。

「あの時の光景は今でも目に焼き付いていて忘れられない。 あの時のおまえを思い出すたびに、 俺たちがどんなに勇気付けられてきたか知れない。 あの時のおまえには、生きてゆけるという希・は全くなかった。 それなのに、おまえには夢がいっぱいあったんだ。 税理士試験の勉強を一心にしていたんだから。」

快方へ

ほどなくして、発・と発熱は免疫力の低下によってかかった感染症であり、 脊髄の異常とは関係が無いものであることが判明しました。 脊髄の異常の原因は相変わらず不明でしたが、 原因不明のままプレドニンという副腎皮質ホルモンの薬を投与することになりました。 プレドニンの投与から約一ヶ月。 私の症状は見る見る良くなりました。 結局原因は今でも分かりません。 脊髄に何らかの炎症があったのだろうということでした。

発病から5年経ったとき、私は税理士試験に合格しました。 受験には10年かかりました。 やっと、真の出発点に立つことが出来たのです。

決して無駄には出来ないと感じました。

開業当初

妻の失業保険が生活費

開業当初の思い

開業当初の私には、 「苦労して資格を取ったのだから、誇りの持てない仕事はしたくない」 という意識が非常に強かったと思われます。 お客様を説得して「いっしょに正しい方向へ進んでいきましょう」という感覚ではなく、 「正しいことをやろうとしないなら仕事は受けられない」という感覚のほうが強かったのだと思います。

事務所の経営基盤を確立することより、 自分の正しいと思うことを貫くほうが自分にとってははるかに大切なことでした。

「開業当初は苦労が付きもの。 同じ苦労をするのなら、収入よりも、自分が正しいと思うことを優先しよう」

間違っていることではないのですが、あまりにもかたくなだったと思います。 ただ、その時の意固地さが、現在に善い意味でつながっていると思われます。 我がままは通しましたが、その結果に対する言い訳を言いませんでした。

毎日が、試されている

受験時代は修行期間だったと感じていましたが、 実は、開業後も、やはり、修行なのだと感じました。 毎日毎日が、試されているのだと感じました。

「武士は食わねどたか楊枝」ではありませんが、本当にお金がありませんでした。 開業の年の収入は60万円。 開業と同時に結婚したのですが、 結婚当初の生活費は、奥さんが受給していた失業保険でした。

開業当初に考えた税理士の理想像

開業当時の私が目指した税理士の理想像は、次のようなものでした。 開業当時に税理士会の会報に投稿させていただいた文章の一部をご紹介したいと思います。

『私のめざしたいと思う「税理士の理想像」ですが、そのことを考えるにあたりましては、 その大前提として「自分が、自分自身の人生を、どう生きたいのか」という原点にたちかえる必要があります。なぜならば、私が、税理士を自分のライフワークと考えている以上、 その目指すべき理想像の実現が、自分の人生観を満足させるものであってほしいと思うからであります。 税理士という職業が自分にとって誇り高きものであってほしいと思うからであります。

良心に従い、正しいことには「YES」、正しくないことには「NO」を正直に言えるかどうか? このことこそが、私にとって自分の職業が誇り高きものであるか否かの分かれ目なのです。 そしてそのためには、自分にとって「YES」はなにで、「NO」はなにかを明確にしなければなりません。 さらに、その「YES」と「NO」が、自分の良心に・っていなければなりません。 そしてさらに重要なことは、 何事も恐れず自分の責任でもって、その「YES」と「NO」を正直に実践できなければなりません。

こうして考えてみますと、自分自身が目指すべき「税理士の理想像」が、おぼろげながら見えてまいります。 その基本は、おそらく次の2点に集約されるように思われます。 一つは、税法を初めとする各種法令に則ること、 今一つは、関与先のためになる業務を行うことです。』

絶対に譲れない3点

税理士が、関与先から報酬を戴いて業務を行う以上、 その業務は、関与先のためになるものでなければなりません。

この場合問題となるのは、どの業務が、本当に関与先のためになるかということです。 この点については、様々な考え方があるとは思いますが、 私は、関与先のためになる業務を行う上で、 なんとしても譲ることのできないと感じ実践してきたことは、次の3点でした。

一番大切なことは、お客様には、正しい考え方で経営をしていただきたいということ。 この場合、過去や現状は一切関係ありません。 今からどうしようと考えておられるのかが問題です。 良い企業・発展する企業は例外なく正しい考え方を有していると私は感じています。 一見繁栄しているように見えていても、正しくない考えの経営は必ず行き詰まる。 そんな例をたくさん見てきました。

正しくない考え方が、企業に与える悪影響を最もよく認識しているのは税理士です。 税理士がお客様のことを真剣に考えるならば、この点について無頓着ではいられません。 お客さんのために、正しい考え方で経営することがどれほど大切なことなのかと言うことを、お伝えする。 そんな支援が出来るのは税理士をおいて他にはないと私は感じています。

2つ目は、毎月お客様をを訪問し、月次の財務諸表を提供すること。 毎月、遅滞なく月次の財務諸表が備え付けられていることは、 関与先企業の経営管理の信頼性を高める上でも、 また、関与先企業の経営者が正しい経営判断を行うためにも非常に重要なことだと感じます。

3つ目は、起票の代行は一切行わないということです。 そのためには、前提として 関与先の経理担当者が会計伝票を起票できるようになるまでは徹底的に指導することが必要となります。 法人税法130条、所得税法155条は、 青色申告者の提出する帳簿書類が適法に作成されたものである場合においては、 税務当局の行う更正処分について一定の制限を規定しています。 このことは、会計帳簿に「証拠能力」を認めていると解することができます。 一方、会計記録の信憑性は、裁判官の心証によるという最高裁の判例があります。 これはどういうことかというと、もし、関与先が、何らかの裁判問題に巻き込まれた場合、 会計伝票の筆跡鑑定により、関与先の経理担当者が起票したものでない場合は、 会計記録は証拠能力を持たなくなるおそれがあるということです。 更に、刑事訴訟法323条では、 業務の通常の過程で作成されて会計帳簿(つまり、お客様が自らの手で日々作成した会計帳簿)には、 登記簿謄本や公正証書の謄本と同列で証拠力が認められています。 だとすれば、関与先の作成する帳簿書類の証拠能力を確保するために、 税理士は、起票の指導を徹底的に行い、起票の代行は決して行ってはいけないことになるのです。

お客様から顧問料という報酬をいただいて、 正しくない考え方の支援をすること、 本来お客様の会計帳簿に備わっているはずの証拠力を損なうことは、 どうしても出来ないことでした。

同時期開業の仲間に叱られる

平成3年3月に開業した時のお客さんの数は0件でした。 5月に私の友人と、奥さんの友人がお客さんになってくれました。 9月ごろだったと思いますが、 私が所属させていただいているTKC(全国で8,000人を超える職業会計人の集団)では、 開業間もない人を集めて、励まそうという会合を開催してくださいました。 その席上、私は、 「今はお客さんも少なくて金銭的には大変だけれども、 税理士であるからには自分の考えを貫きたい」と申し上げたら、 同時期開業のかたがたから、徹底的にお叱りを受けました。

「税理士も経営者であるということを忘れているのではないか」 「自分の事務所経営が全く成り立っていないのに、よくそのようなことを言っていられるものだ」 「経営者として無責任だ。」などなど。

そのとき、先輩の先生が助け舟を出してくださいました。 「それぞれ、考えがあるのだからそれも悪くない。 ただ、寺本さん、私は開業当初自分の名刺を工夫しました。 二つ折りのものにして、出来る限り自分の仕事を初対面の人に理解してもらえるようにと考えました。 一度寺本さんも、ご自分の名刺を工夫してみてはいかがでしょう」

素晴らしい示唆を与えていただいて、 私は事務所に戻ってから、(事務所といっても当時は実家の一室を使用していましたが) 徹夜で二つ折りの名刺を考えました。 やっと朝の8時前になって、これならばと納得できるものが出来たと思った時、 早朝早々から来客がありました。 (株)TKC(東証1部上場、会計事務所支援のための計算センターを経営する会社)の 京都の責任者の方と私を担当してくれていた社員さんでした。 「ちょうど良いところへ来てくれました。昨日教えていただいた名刺が出来たんです。 見てください。」と言って見てもらいました。 徹夜で考えた名刺を早く誰かに見てもらいたいと思っていた時でしたから、最高のタイミングでした。 (株)TKCの方はは、30分ほど滞在された帰られました。

その責任者の方は、ほどなく・勤されたのですが、 3年ほどしてお会いした時、始めてその日の訪問の意図を打ち明けてくださいました。 「前日、まわりの皆さんから徹底的に言われたでしょう。 担当者が心配して、いっしょに寺本先生の様子を見に行ってくれと報告してくれたのですよ。 そしたら、先生は、名刺を徹夜で考案しておられた。 その様子をうかがって、安心して戻ったのです。」 ここまで、私のことを心にかけていてくれる人がいたのだということを、 その時まで想像もしていませんでした。

やっと3件目、天国が一・地獄、でも悪いことばかりでもない

天国

平成3年11月、知りあいの紹介で、新規開業の歯科医院を紹介していただきました。 待・の3件目のお客さんです。 経営者は私と同年代。 一度訪問していろいろとお話をさせていただき、顧問が決まりました。 その晩は、妻といっしょに祝杯を挙げました。 二人とも涙を流して喜びを分かち合いました。

地獄

2週間後、そのお客さんとの約束の訪問日です。 私は意気揚揚として歯科医院を訪問しました。 ところが、そのドクターは不在で、奥様が私の訪問を待っておられました。

「主人の父が事業をしているのですが、お父様の会社を顧問して下っている税理士の先生が、 『息子が事業を始めるのになぜ私に関与を任せないのか』と言われたのです。 うちの主人はどうしてもお父様の顔をつぶせないと言います。申し訳ありません。 今回の話はなかったことにしてください。 主人がそう伝えてくれと申しておりました。」

目の前が真っ暗になりました。 その日私は自宅に帰り泣きました。 妻もいっしょに泣いていました。

でも、悪いことばかりではない

それから、一月ほど経った、平成4年の1月10日。 その日は、妻の誕生日です。 TKCである会合があり、妻とともに出席しました。 会合が終わってから、TKCの大先輩の先生が、私達を祇園へつれていってくださいました。 夜もふけ、日が変わろうとしていましたが、その大先輩は、 「今日はえべっさんや。これから、寺本事務所のために、恵比寿神社へお参りしよう。 残り恵比寿のほうが良い。日が変わるのを待っていくぞ。」といって、 恵比寿神社へつれていってくださいました。 笹にいろいろなものを付け持ちかえりました。 もちろん笹と飾りの代金は自分で支払をしましたが、 「これは俺からや」と言って最後の一つだけ、その大先輩が飾りを一つたしてくださいました。 翌日、今度は本ものの3件目の話が舞い込んできました。 先輩に心から感謝しました。

自分の理想を追求することの試練

自分が正しいと信じていることを、恐れることなく実践してゆくことは、本当に素晴らしいことです。 しかし、何があってもくじけずに実践しつづけるためには、やはり相当の覚悟がいります。

私の場合、お客さんになっていただく前に、まずその方と出来るだけ時間をとってお話し合いをします。 その方がなぜ事業をしているのか。 どのような理念をもってっ事業を行なっているのか。 どんな人生を歩みたいと思っているのか。 経理の重要性。経理は自分でやって始めて意味があるのだと言うこと。 私の事務所は、お客さんがあきらめてしまわない限り、 出来るようになるまで徹底的にご指導させていただくこと。 そのようなことを出来るだけお話をします。 でも、 「前の先生は、領収書の束を持っていったらすべてやってくれた。 先生のところはやってくれないのですか」と言われる。 「忙しくて経理が出来ないから、頼んでいるんだ。 自分でしなければならないのでは意味がない。」 「経理は他人任せでは意味がない。」といくら説得しても、分かっていただけないこともありました。 関与をさせていただく時にいろいろとお話をさせていただき、 ではいっしょにやっていきましょうと言うことになって、はじめて顧問契約を結びます。

新しくお客さんになって下さったかたに、次のような方がいらっしゃいました。 記帳の指導をするために、毎月お伺いしても何も出来ていない。 私が起票の代行をしてしまっては、決してお客さんのためにならないと思うから、 目の前で、一枚一枚の伝票を作成していただく。 数時間かけてやっとでできる。 「来月は必ずやっておきます」と言われるのですが、 翌月行くと、やはり、何も出来ていない。 7か月繰り返した時、とうとうお客さんのほうから、 「先生ごめん。どうしても書けない。」とおっしゃいました。 「どうしても出来ないのなら顧問契約を解除しようか。」ということになりました。 週に一回ゴルフに行く時間は取れるのに、残念ながら伝票は書けないのです。

やっと軌道に乗りそうだと思ったが

大問題発生

そうこうして、開業から三年が経ち、 職員も採用し、なんとか事務所経営も軌道に乗りそうだと思った時に大問題が起こりました。 前年の年収の三分の一を頂いていたお客さんとの顧問契約を見なおさなければならなくなりました。

そのお客様は、私の仕事振りを見込んで新しい仕事を任せてくださいました。 その新しく始めさせていただいた仕事上で、明らかに正しくない処理をしておられました。 社長と何度もお会いして説得しましたが聴き入れてもらえません。 認めてしまえば、ここまで私が守りつづけてきた考え方を無にしてしまいます。 かといって、認めて、「清濁あわせ飲む」ということを容認しなければ、 事務所はどう考えても成り立ってゆけそうにありません。 自分一人でやっていた時代なら、答はハッキリしていました。 しかし、今は職員もおり、苦労して続けてきたことが、今まさに軌道に乗ろうかという時でした。

私は悶々と悩みました。

職員が助けてくれた

当時私は、TKCの大先輩で、 名古屋で事務所をされている素晴らしい先生とお付き合いをさせていただいていました。 その先生に相談してみようと思い、手紙を書きました。 手紙を書き終わった時、もう私の覚悟は出来ていました。 顧問契約の継続は出来ないと腹が決まっていました。

私は、大切な話があるからと、当時の2人の職員呼びました。 「もう気づいていると思うけれど、関与先のA社でこのようなことになっている。 僕としては、このまま関与を継続することは出来ない。 収入の多くを失うことになる。 ついては、本当に申し訳ないけれども、今年の昇給と賞与の支給は出来なくなると思う。 許してもらえるだろうか。」と告げました。

二人の職員が、何と答えてくれたと思われますか? 彼らは次のように行ってくれました。

「そのような仕事は是非断ってください。 私達もやりたくありません。 給与のことなら1年や2年なら我慢します。」

私は、嬉しいというより本当に恥ずかしいと思いました。 自分が信頼して、自分と同じ考え方を持った人間をパートナーとして選択し、 いっしょにやってきたにもかかわらず、 彼らがそこまで考えてくれているということを信じることが出来ずに悩みつづけていたのです。 彼らに本当に申し訳ないと思いました。 即刻、そのお客さんに連絡して、顧問契約の解約を通告しました。

この時から、私の中に、仕事を進めていく上での「迷い」は、ほとんどなくなりました。 「悩み」や「苦しみ」は尽きないのですが、「迷う」ことは、無くなりました。

現在の理念、考え

普遍的なことに変わりはない

これまで書いてきたようなことを繰り返しながら、私はなんとか、開業10年を迎えました。 本当に多くの人達に支えていただいたおかげだと感じます。 感謝の心を決して忘れることは出来ません。

また、一方で、開業当初は青臭いことを言っていたなと感じることもありません。 多分、いまだに青臭いのだと思います。 私はそれでよいと思っています。 目の前の現象は常に変わっていますし、それに対する対処も当然変化しています。

でも、「自分の出来る限りの範囲で他の役に立つ」という普遍的なことは変わりようがないのです。

ただ、私も数少ないとはいえ、いくらかの経験をさせていただいたことで、 同じことをしていても、それなりにこなれてきた、ということはいえるかもしれません。 開業当初は、自分の理念や考えを通すということに、相当かたくなだったと思います。 自分本位のところがありました。 だから、いつも衝突していました。 自分の我を通すことが優先していたからだと思います。

素晴らしい人生哲理との出会い

いきるということが、周りとのかかわりそのものであることを考える時、 善く生きるためには、我を通すより、他を活かすこが大切なのだと、 ほんのわずかではありますが、気づかせて頂いくことが出来たと感じます。

TKCに入会して私は「自利とは利他をいう」という素晴らしい人生哲理に出会いました。 「自利とは利他をいう」という哲理の、奥の深さを知れば知るほど、 一度しかない自分の人生を、「自利利他」で生き抜くことが出来たなら 何と素晴らしいだろうと感じるようになりました。 自分だけよければいい、事務所だけよければいい、という考え方から脱却して、 自己本位の考え方を少し広げて、自利利他の理念を通して世の中を少しでもよくできれば、 また、そういう仲間を1人づつでも増やしていくことができればと感じています。

ここまで私を支えてくださった方々を想い、 また、私が生かされているのだということを想う時、 まず私自身がをささやかではあっても、 「自利利他の実践」ということを、 強く意識し、ウソをつかず、手を抜かず、続けてゆかずにはおれません。

人生は一回

私達は、父と母があってこの世に生を受けました。 私達の父と母も、それぞれその両親があってこの世に生を受けたのです。 つまり、私達は、4人の祖父母があったからこそこの世に存在しているのです。 祖父母にもまた、それぞれ両親がおり、三代さかのぼると8人になります。 実は、20代さかのぼるとその数は1、048、576人になるのです。 20代前の100万人を超える祖先の、誰一人が欠けていたとしても、 今の私達は、この世に存在していないことになります。 同じようなことは、私達の子孫にも言えるのです。

山本有三は、「路傍の石」の中でこう述べています。

たったひとりしかない自分を、 たった一度しかない一生を、 ほんとうに生かさなかったら、 人間、生まれてきたかいがないじゃないかと

一回しかない人生だからこそ、充実したものにしたいのです。 上っ面の繁栄に惑わされることなく、中味の充実を計りたいのです。 生き甲斐のある人生を送りたいのです。 ただ、これを実現することができるのは、この世にたった一人しかいません。

主人公は自分自身なのです。


資格を取得するまでの10年間は、修行の期間でした。開業してからの10年間も、やはり修行期間でした。これからの10年も、その先も、生きている限り。一日一日が、素晴らしい修行なのだと感じます。

reports/report6.txt · 最終更新: 2009/05/31 10:31 by 寺本和生
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